2011年12月31日土曜日

ブログを始めた理由

ひとつ階段をのぼって、やっと一息つけるかな  と思った瞬間、突如目の前に巨大な壁が現れる...そんな1年だった。

もう、やめてしまおう、何度も思った。
この年で、新しい事を始めるなんて、無謀なんだと。

でも、壁を前に立ちすくんでいる時、必ず誰かが現れた。
そして助けてくれた。
励ましてくれた。
叱ってくれた。

事業計画書とも言えない落書きのようなものを見て、それでも応援してくれたKさん、K社長、NBCの皆様、Tさん、K先輩。 皆様がいなければ、途中であきらめていました。

”社会に必要とされる会社にしたい”と伝えたとき、経理面でのサポートを申し出てくれたS先輩。
”絶対成功する!”と励ましてくださった司法書士のT先生。
三人でミーティングをした東京駅地下街のコーヒーショップは、この会社の原点です。

大学ベンチャーの認定を得るのに苦労していた時、”あせらないで階段を一段一段登っていくように”と法律面でのアドバイスをしてくださったAちゃんパパ(偉い弁護士さんです)。

心配しつつ、支えてくれた友人たち。

千葉市ベンチャーカップ準グランプリ、ひまわり育成基金、千葉元気印大賞奨励賞、千葉大学地域社会貢献賞など、身に余る賞を頂けたのも、千葉市産業振興財団をはじめ、関係者の皆様のお陰です。

お取引先にも恵まれた1年だった。
こんな立ち上げ間もないベンチャーにプロジェクトを依頼して下さったおかげで、会社の基礎を作る事が出来ました。チームの一員のように大切にしてくださり、楽しく仕事をさせていただきましたこと、感謝しています。

そして家族。
こうして好き勝手な事をやっていられるのも家族のおかげです。
また、病気をした家族を救ってくれた優秀で心優しい医師たち。

ここには書ききれないほど、沢山の人が力を貸してくれた。
言葉では照れくさくて言えない、感謝の気持ちを伝えたくて、ブログを始めました。

ただ、大震災で亡くなった方、いまだ苦しんでいる方を思うと、言葉がありません。
そして家族の入院で知った、社会のもう一つの側面。
世の中が浮かれている瞬間も、病気と向き合っていらっしゃる方々。

生かされている事が奇跡なのではないかと知った一年でもありました。
ありがとうございました。

2011年12月7日水曜日

我が家の家族構成

家族の紹介をします。

って、誰も聞きたくない......でしょうが、一応、やっときます(笑)。

夫 一人(う〜ん、当たり前か。残念)
娘 一人(大学院生、金喰い無視 誤字ではありません、お金の催促の電話→慌てて送金→礼も言わずに知らんぷり状態)

涼平 (チャイニーズシャーペイ、闘犬、獰猛、マザコン)
猫ちゃん (本名です。震災以降、家族の一員に)

小さい頃から犬が好きで、ずっと獣医師になろうと思っていたくらい(諸般の事情で進路変更)。
我が家の問題児、涼平についてはいずれゆっくり書こうと思います。

数年前から近所をうろつき、目つきも態度も悪い猫がいました。
毎年子猫を産み、がりがりに痩せ、その後子猫は行方不明の繰り返し(涙)。

その猫がなぜか震災後、我が家の庭で子猫を産んだのです。
毎日楽しみに子育ての様子を眺めていたのですが、子猫はいなくなりました。
誰かがもらってくれたと信じています(涙)。

一人ぽっちになった猫ちゃん
家族にしようと思いました。
地域猫という制度があり、自治体の協力を得て、捕獲、不妊手術。
ちょうど、ウッドデッキを改築していたのですが、大工さんがご好意で猫ちゃんの部屋も作ってくれました。

震災で世の中がおかしくなっていた時
ふっと舞い込んで来てくれた真っ白い猫ちゃん。
幸せにしようと思っています。

でも、私の方が毎日彼らに幸せをもらっているのかも。
姿形が違うのに、言葉も交わせないのに、一緒に時を刻んでいく幸せ

てか、猫って、自由気まま。
まだ夜遊びして帰ってこない!!
うらやましい。

2011年11月21日月曜日

いつか

千葉の田舎の方に(といっても家から車で30分とかからない場所)美味しい蕎麦屋がある。
蕎麦が苦手だった娘も、そこで初めて蕎麦の美味しさを知った。
その店で出される天ぷらも、近くで穫れる何てこともない素朴な野菜だけ。
私は油の匂いがダメで、天ぷらもあまり好きじゃなかったけれど、そこのだけはなぜか全部食べることが出来た。
美味しかった。

久しぶりにその店に行ったところ、10月末で閉店しましたと貼り紙が。
うーん。
田舎の店には珍しく、いつも満席だったのに。
本当に参った。

私は欲ばりで、楽観的で、悪いことは信じない、自分には不幸は降り掛かってこないと信じていた。
でも最近、永遠というものは存在しないんだ  と、こんな傲慢な私でも認めざるを得ない出来事が起こった。
大切なもの、かけがえのないものは永遠に手にしていたい。
いや、永遠に手の中にあるのだと信じていた。
でも、物事には終わりがあるんだ、
いつか、その温かいものを手放さなければいけないときが来るんだと今更ながらわかった。

じゃあ、人は何に向かって生きているんだろう。
いずれは無になってしまうのに。

ここまで書いていて、これ、ほんとに社長のブログ?
こんなこと書いて、まずいんじゃないか?
社長だったら、もっと、経営目標だの、小難しいことを書くべきではないのか!?

尊敬する経営者が私にかけてくれた言葉
”これからは、想いのない会社は淘汰されていくでしょう”
能力はないけれど、想いだけはある。
研究者の想い、そこで学ぶ学生の皆さんの想い、それを必要としてくださる社会への想い それを大切に思う気持ちだけは、誰にも負けないと思っている。
そこだけが、かろうじて私が社長であることを許されている理由かもしれない。

いずれは全てが土に帰り、この苦労やあがきや喜びも無になってしまう時が必ず来る。
でも、命を与えられ、こうして多くの人に支えられ仕事ができているのなら、きっと目に見えない何かの力が働いているのだろう。

景色すら目に入らないような苦しい一ヶ月でした。
一ヶ月ぶりに犬と歩く公園、銀杏の葉が美しい秋になっていました。

2011年10月31日月曜日

真夜中のお寿司

故郷の筑豊の空は、うすい灰色がかった空だ。
かき〜んと晴れた青空を何だかこっ恥ずかしいと思う人が多いのも筑豊かもしれない。

実家は田舎で酒屋をやっていた。
子供心に、儲かってるじゃん!と思うときもあれば、ヤバくない?(当時はヤバいなんて言葉はなかったけれど)と心配になるときも。

父は仕方なく酒屋を継いだという人間で、田舎に住んでいたわりにはそこそこ遊んでいたようだ。
真夜中に帰って来て、”起きなさい!お寿司買って来たから”とたまに起こされた。
次の日、学校なのに.....変わった親だ。
眠い目をこすりながら、ぼそぼそと食べた折り詰めの香りが今でも懐かしい。

当時、なぜか姉は一階で祖母と一緒、私は2階で父母と一緒に寝ていた。
父母が来るまで一人でいるのが怖くて、こっそり一階の祖母の布団に入っていることもしばしば。

そんな夜、父母の衝撃的な会話を耳にする。
”この酒屋は好恵ちゃんに継がせるばい。婿養子でもとって”
多分、小学校4年生くらい。
私の人生はもう決まってるんだ。。。と、小学生なりに絶望した。
でも次の瞬間、”絶対いやだ、東京に行く”と決心した。

会社を立ち上げようと思った瞬間といい、東京に行くと決めた瞬間といい、短絡的で、単細胞。
でも、この二つだけは、なぜかあきらめなかった。
他は全部、三日坊主で終わったのに。

酒屋は継がなかったけれど、商売をするという、あの何とも言えない危うさのような、ぞくぞくするものが染み付いているのかもしれない。
予期せぬ成り行きから立ち上げた会社だけれど、妙にしっくりくる。
会社登記から2年以上、後悔したことは1秒もない!...かな。 
ない...と思う。
ない...よね(笑)。

2011年10月30日日曜日

起業なんて考えてもいなかった

人生はひょんなことから、思いもかけない方向へ進んでいくことがある。
2年前、日本橋駅で見た光景。
階段の真ん中に高齢の男性が大きな荷物を抱えて、立ち止まっていた。
その方を避けるように人の波が動いていた。
出口がわからなくて、途方に暮れた目。 遠い目。

家に帰って、夫に話をした。
”東京の人は、冷たいばい(福岡弁)。お年寄りが困っとうとに(訳:困ってるのに)、み〜んな知ら〜んぷりして。私だけばい、荷物持って出口まで連れてってあげたのは”。
今はやりの ”どや顔” で、私がいかに親切な人間であるかを、東京人である夫に嫌みったらしく言う。

そこで返って来た言葉。
”それは人云々の問題もあるけど、標示が見えないんだよ、高齢の方には。いや、高齢の方だけじゃないなあ。”
そこで初めて夫の研究内容を知った。
結婚して20数年、何を研究してるのか、全く知らなかった(ごめん)。

今までデザインや文字は、作り手側からの一方的なものだった。
それを科学的な視点から考えていこうということで、実験心理学をデザインに取り入れるという方法を生み出していた。
医療現場などでヒューマンエラーを起こしにくいデザイン、高齢者に見やすい文字や表示など、この方法を用いれば、数値で評価をし、見やすさが検証されたデザイン提案が可能だと。

驚いた。
そんなことが出来るなんて。

ずっと疑問に思っていたことがある。
世の中は、本当に便利になったのかなあと。
最新機器が出たとTVで騒いでいるけれど、本当に使いこなせてる人がどれほどいるのか。
親に新しい携帯をすすめても
”年取ってるけん、使いきらんよ(使えないよ)”と恥ずかしそうにいう。
なんか、変だよな。
使いこなせないことが恥ずかしいこと??
違う、そんな製品を世の中に出していることが恥ずかしいことなのではと。

すぐにそれをビジネスにしようと思った。
企業との共同研究としてだけでなく、よりスピーディに、さらに世の中に訴えていくためには会社を作ろう と。

そのときには、これから先、沢山の苦労が待っているなんて、想像すらしなかった。

15年